ふーみんの無限世界

エッセイ、詩、小説の可能性を信じて

ささやかな祝杯

 幾度も繰り返し経験して慣れっこになっているとしても、決して、快の感情は湧いてこないことがある。
 またか。
 晴美は思わず舌打ちしたくなったが、辛うじて気付かれない程度の溜息をするだけに留めて置いた。
 このチャンミ(ばら)アパートという古臭いネーミングの団地の隣家に住む幼稚園児のイエリンに、
 「おばさん、日本人って悪い人たちなんでしょ」
 と言われたからだ。
 韓国には、過去の植民地時代や、豊臣秀吉の朝鮮出兵などの歴史があり、日本は悪い国という意識が継続的にある。
 幼いころから、繰り返し教えられる。
 イエリンも幼稚園で教えられたのだろう。
 イエリンは素直な女児で、思ったことをそのまま口に出すタイプだ。
 全く悪気はない。
 隣に住む日本から来たおばさんにこういうことを言ったとしても、邪気は無いことは、春美にはよくわかっている。
 この国に住み始めてから 数知れず経験してきたこと。
 春美の上の息子のトンジニはまだ幼稚園年少組だからか、これといった反応も無く、出された菓子を頬張っている。
 そのうち息子のトンジニにも、こんなふうに言われる日が来るのかと、暗澹たる気分になりながらも、イエリンに一番わかりやすく教えるにはどうしたらいいか考える。
 「おばさんは日本人だけど、おばさんは悪い人かな?」
 春美はここ、慶尚北道テグの訛りが少し混じった、あまりうまいとは言えない韓国語で、イエリンに話した。
 イエリンは首を振る。
 「ううん。おばさんは悪い人じゃない」
 春美は少し安堵して続ける。
 「韓国人にも、いい人と悪い人がいるでしょ。それと同じで日本人にも、いい人もいれば、悪い人もいるのよ」
 「そっかあ」
 イエリンはそれなりに納得して、残り少なくなった菓子を、慌てて口に運んだ。


 韓国人の夫と三歳になっていた長男のトンジニと、赤ん坊だった次男のトンスを連れてこちらに来て一年。
 これと似たようなことと、なんども向き合ってきた。
 イエリンの言ったことなど、まだ序の口でまだかわいいものだ。
 個人差というものは万国共通あるということは百も承知しているが、国民性というのは確かに存在していると春美は思う。
 こちらに来てから、とにかくよく話しかけられる。
 日本人が韓国語を話すと、独特のイントネーションになるせいか、春美がいかに慎重に話しても、すぐにばれてしまう。
 それで得することもある。
 果物売りのおじさんに、ご苦労様、とみかんをおまけしてもらったり、同郷の友達が欲しいだろうと言って、近所に住んでいた日本人を紹介してもらったりした。
 だけど、どちらかといえば、いやな思いをすることのほうが多い。
 市場の肉屋の親父は、春美が日本人だと分かると、わざと春美の韓国語が理解できないというふうに、肩をすくめてなかなか注文を取ってくれなくなった。
 近所のガキが、春美の下手な韓国語を真似てからかったりする。
 風呂屋に行けば、見ず知らずのおばさんに、
 「日本じゃあ、男と女が一緒に入るんだって?気持ち悪くないのかい」
と言われる。
 挙句の果てには、さして美人でもない知らない女に、
 「日本の女って、ブスばっかりだよね」
 と失礼なことを言われたりする。
 いちいち真面目に受け取ると腹が立つのだが、いつからか適当に受け流して、心の底では、ばっかじゃないの、と悪態をつくようになった。
 そういう生活に意外と音を上げなかったのは、当地では春美はあくまで韓国人と結婚して、韓国人となるであろう子供たちを育て、韓国で暮らしている日本出身の嫁、というスタンスで扱われているからであった。
 ただ春美に我慢しがたかったのは、夫の態度が日本で暮らしていた時と180度違うことであった。
 話す言葉によって、性格も影響を受けるのらしい。
 夫は自分の国に戻ってから日に日に韓国人に戻っていった。
 春美の知らない韓国語や韓国の文化があれば、そんなことも知らないのかと罵り、見よう見まねで作った韓国料理にまずいと文句をつける。
 おまけに二度の出産で太った春美に、デブだのブスだのという意味の韓国語を浴びせかける。
 いったい日本で一緒に暮らしていた時の優しく穏やかな夫はどこに行ってしまったのだろうか。
 これが本当の夫の姿なのだろうか。
 夫の態度は我慢しがたかったが、春美には手のかかる子供が二人もいて、毎日その世話に追われ、それ以上考える余裕もない。
 突然電話がなった。
 「ヨボセヨ」
 韓国語で電話に出るのも、もう慣れた。
 受話器から聞き慣れた夫の声がする。
 もう夫婦の会話も韓国語になって久しい。
 「今夜、サッカーの試合があるだろ」
 当たり前の事実のように夫が言う。
 「そうなの?」
 と春美は聞き返す。
 「そんなことも知らないのか。今日は韓日戦があるって言ってただろ。今から帰るから、つまみとか準備しといてくれ」
 今からということは、あと20分くらいでご帰宅ということか。
 普段なら帰宅までもう2時間は遅い。
 「つまみって、なにを?」
 春美の言葉に、夫はいら立ちを隠さず、
 「そんなの適当にやってくれよ」
 「適当って、今日は買い物してないから、そんなにいろいろ無いよ」
 「ばかじゃないのか。イカとかあるだろ」
 「冷凍イカはあるよ、それで、」
 春美の言葉を最後まで聞かず、夫は電話を切ってしまった。
 春美は溜息をついて立ち上がり、トンスを背中におぶると、冷蔵庫を物色する。
 日本でだったら、春美は料理ができないほうではないが、こちらでは全くの劣等生だった。
 なにしろ作り方がよくわからない。
 本を見ながら作っても、夫はなんだこれ、という反応。
 夫の母に教えてもらおうにも、夫とは血のつながらない継母で、夫とも不仲で頼りにならない。
 とりあえず3,4品作れることを確認して料理を始めた。
 料理の合間にイエリンを家に帰し、部屋に散乱した玩具を片付ける。
 背中のトンスはうたた寝しているのだが、降ろして寝かそうとするとぐずるので、仕方なく背負ったままだ。
 今度は玄関の呼び鈴が鳴る。
 夫だ。
 夫は入ってくると、トンジニを呼んだ。
 「これからサッカーの試合だぞ」
 夫が言うと、トンジニはよくわからないながらも、
 「サッカーのシアイ」
と言っている。
 「そうだ。今団地の下の庭で、みんなで応援しようって言ってる。大型テレビを持ってる奴がいて、庭に運んでるんだ。おい」
 と春美のほうを見て夫が続ける。
 「飯は後で食うよ。とりあえず着替えて、トンジニと一緒に下で見る。つまみとビールを持たせてくれ。お前も来るか?」
 冗談でしょ、という言葉を飲み込んで春美は、
 「私はいい。トンスもいるし。家のテレビで見てるよ」
 「そうか」
 夫もそれ以上は勧めない。
 さすがに韓日戦を日本人の妻と見るのはどうかと思ったのだろうか。
 オリンピックだ、ワールドカップだ、野球だ、サッカーだと、そういう一大行事の度に、この団地をはじめ、そこらじゅうの街角で、どこからか大画面テレビが運ばれてきて、大騒ぎしながら観戦するのがこの国だ。
 そして中でも一番盛り上がるのが、韓日戦なのだ。
 春美はその度に、耳を塞ぎたくなる。
 最悪だったのは、夫が客を連れて来て、家でそれをやった時だ。
 春美は給仕にかこつけて、一緒に観戦するのを避けた。
 それでも客は残酷な質問をするのだった。
 どっちを応援しているか、と。
 春美は、さあ、と言葉を濁す。
 日本にきまってるじゃん、そんなの、とはさすがに言えない。
 客に悪気は無い。
 客は春美も韓国側だと思い込んでいるような単純な人たちだったのだ。
 春美はそういうところも理解はしていたが、納得はできなかった。


 夕食の準備が済むと、トンスに離乳食を食べさせながら、テレビを見る。
 夫とトンジニは既に階下へ降りて歓声に加わっている。
 ベランダから下をのぞいて見たら、2,30人ほど集まっていて、茣蓙の上で酒を酌み交わしている。
 子供たちはトンジニを含め、興奮して、テーハンミングッ、と叫びながら走り回っている。
 前半戦、最初から韓国のペースだ。
 韓日戦はなぜか韓国側が常に有利だ。
 今夜の試合もソウルで行われているから、ほぼ日本が負けるのは間違いないだろうが、つい見入ってしまう。
 トンスが離乳食の皿をひっくり返した。
 先ほどから遊び食べしていたのを春美が気が付かなかったのだ。
 「ヤー、アンデ。チャルモゴッスンミダ」
 直訳すると、
 「こら、だめ、ごちそうさま」
 という感じなのだが、近所のオンマたちがだいたいこんな感じなので、春美もそうなっている。
 ヤー、というのが、おい、とかこら、というニュアンスなのだが、春美がこれを子供たちを叱るときに大声で連発していたら、夫に、はしたないと言われたことがあった。
 外国語をきちんとした教育を受けずに学ぶと、覚えやすいものから入っていく。
 これが困ったことにあまり感心できない言葉だったりすることが多い。
 いいじゃん、みんな言ってるんだから。
 なんでいつも韓国式にこだわるくせに、そういうところだけ嫌がるんだろう、と春美はいまだに納得がいかない。
 散乱した皿だの、こぼれた離乳食だのを片付けていると、嗅ぎ慣れた不快な匂いが漂う。
 トンスが大便をしたらしい。
 なんだかんだと片付けに追われている間、何度か歓声が聞こえたが、それはすぐ近くのテレビからではなく、階下から聞こえてくるものだった。
 今日も負けか。
 春美は、もう試合に興味が無くなり、汚れてバケツいっぱいに溜まったおむつの洗濯を始めた。
それを皮切りにあちこちでいくらやっても終わらない家事を片付けていると、トンジニがオンマーと言いながら玄関から駆け込んできた。
 「お腹空いた、ご飯」
 「サッカーは?」
 春美が聞くと、
 「半分終わって、今休み時間だから、アッパが食べて来いって」
 前半戦が終わったらしい。
 トンジニにご飯をよそって出すと、早く下に降りたいのらしく、かなりのペースでがっついている。
 夫は下で飲みながら、前半戦のうんちくを近所の親父たちと語り合っていることだろう。
 トンジニは食べ終わるとすぐに、テーハンミングッ、と言いながら、階下に降りて行った。
 トンジニが試合は一対ゼロだと言っていたので、もう日本が勝つ見込みは無いだろう。
 スタミナのある韓国の選手に後半戦で日本が巻き返すことなど、ほとんど不可能だ。
 トンスを風呂に入れてから、寝かせる準備をし、ベランダに出てごみを片付けていると、悲鳴のような声が聞こえてきた。
 どうやら韓国側が苦戦しているらしい。
部屋に戻ってテレビを見ると、いつのまにか一対一になっている。
 残りあと5分だ。
 いつのまにか春美はテレビの前に正座して画面にくぎ付けになっていた。
 つい、おっ、とか、よしよし、とかつぶやいてしまう。
 最近は独り言も韓国語の多い春美だったが、今は日本語の独り言だった。
 日本側のパスが韓国側の裏をかき、絶妙なチームプレイでゴールすると、春美が喜ぶより先に、外から何とも言えないどよめきが伝わって来た。
 春美は一瞬これにひるんだが、間もなく小さな声で、やった、とつぶやくと満足げに頷いた。
 試合が日本の勝利で終わるのを見届けると、台所に戻り、小さなサイダーの缶を冷蔵庫から一つ取り出して、一番気に入っているグラスに注ぐと、一気に飲み干した。
 今日はいくら夫が不機嫌でも許せる気がする。
 テレビの脇に立っているトンスに、
 「おめでとう」
 と日本語で言うと、トンスは首をかしげながらも、春美のご機嫌な様子につられたのか、きゃっきゃとはしゃいだ声を上げる。
 春美は日本にいたときには嫌いだった君が代さえ歌いたい気分だ。
 国民の祝日には必ず太極旗を掲げるこの国で、春美は一人ひそかに祝杯をあげるのだった。


                                 了