ふーみんの無限世界

エッセイ、詩、小説の可能性を信じて

錆びた釘

音は聞こえているのに、意味が理解できないという状態を、理沙は初めて経験していた。
警察からの電話。
夫が、どうしたって言ったんだろうか。
耳に入る言葉は、ただ音になるばかりで、意味を成さない。
即座に頭に浮かんだのは、夫がどこかの駅で倒れている映像。
胸の鼓動が激しくなり、指先が震える。
どのくらい怪我をしたんだろうか、どうして怪我をしたんだろうか、頭がくらくらする。
なのに、警官は理解できないことを言っている。
身元引受人がどうとか、相手方がどうとか。
本人は反省している、とか。
とにかく行かなければいけないことは理解できた。
警察署の場所を聞き、勤め先に急用で遅れると連絡を入れ、家を出た。
ふわふわと現実感の無いまま電車に乗る。
通勤時間帯のピークは越えていたものの、座れるほど空いてはいない。
いつもと逆方向の電車に揺られながら、頭の中で、先ほどの警官の声を何度も再生してみる。
いつもならつわりで、口の中の唾をむりやり飲み込みながら耐え、どうしても我慢できず、途中下車することも頻繁にあるほどなのに、今は吐き気も感じない。
なにかの間違いに違いない。
夫がそんなことをするはずがない。
今朝も普段と変わらない様子で出かけて行った。
でも、とにかく行かなければ。
辿り着きさえすれば、本当のことがわかるはず。
なにかの間違いだったと。
自宅から少し離れた警察署だから、もちろん初めての場所だ。
入り口で電話で伝えられた部署を尋ねる。
受付の警官が事務的な態度だったのが、理沙には少しの救いだった。
小さな部屋の通されて椅子を進められ、ドアを閉められた。
壁にはいくつか染みがあり、黄ばんでいる。
ほどなくして一人の年配の警官が入って来た。
理沙の正面にゆっくりと腰掛ける。
「奥さん、落ち着いて聞いて欲しい」
警官の優し気な声に、冷汗が噴き出てくる。
「はい」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど震えている。
「彼のやったことは犯罪だけど、本人、初めてのようだし、反省している。
 だからあまり怒らないであげてほしい。
 魔が差して、こういうことをしてしまうこともあるし、本人反省してるから。
 被害者の方も告訴はしないでくれるそうだから」
ちょっと待って、よくわからない。
理沙はそう言いたかったが、言葉が出てこない。
ここに来るまで、これが間違いだと聞けるのではないかと、そう思っていた。
でもこれは、罪の確定、刑の宣告ではないか。
衝撃で体が震える。
だめだ、今、こんなに動揺したら、お腹の赤ちゃんがどうにかなってしまう。
理沙は努めてなにも考えないように、目の前の警官の口の動きに集中した。
返事は自動的に、はい、とだけ繰り返す。
警官は優し気に理沙に、これからしなければならない事務的なことを説明する。
いくつかの書類にサインをしなければならなかったが、今まで書いた字の中で一番汚い字になってしまった。
手が震えているのを、警官は見ないようにしてくれているようだった。
そんな憐憫をかけられている自分がたまらなくみじめだ。
全ての事務処理が終わると、警官がまた念を押すように言う。
「あまり責めないでやってね」
はい、と言う言葉をもう一度発した時、これが現実なんだと叩きつけられた気がした。
足元から崩れ落ちそうになる。
痴漢、初犯、5万円の罰金。
夫がうつむきながら、警官に連れられてきた。
朝、行ってきますと家を出たときと同じスーツを着た夫。
聞きたいこと、言いたいこと、あるはずだった。
お互い、なにも口を利かず、最寄りの駅へと、ただ歩いた。ほんの少し距離をあけて。
理沙と夫の勤務先は同じ路線の反対方向だ。
改札を通ると、夫が振り向いた。
理沙は目を合わすことができなかったが、おそらく夫もそうだろうと思った。
反対のホームへ向かう際に、夫は、悪かったな、とだけ言った。
理沙は、うん、と小さく言うだけだった。
夫が否定してくれることを切に願っていた。
疑われちゃって、ほんとはしてないんだよ。
そんな言葉を期待していたのに。
一日過ぎ、二日過ぎ、何日過ぎても、なんの弁解も聞くことができなかった。
理沙は忘れたふりをして過ごすしかなかった。
一度もその話を夫とすることはなかった。
罰金の通知がきても、その5万円を振り込むときも、一言も夫に告げなかった。
夫だけじゃない。誰にも言えない。
死ぬまで決して誰にも言えない。
忘れなければ、忘れたふりをしなければ、そうしないと生きていけない。
もうじき生まれるこの子のためにも。
離婚を考えなかったわけではなかったが、理沙は深く考えたくなかった。
日に日に大きくなっていくお腹。
つわりはに安定期をすぎても一向に良くならず、常に一日中吐き気がする。
平常時なら、飲み込むことができなかったはずのことに、理沙は目をつむるしかなかった。
そう、ただ一度、魔が差してしまっただけのこと。
そして理沙は汚物に蓋をするように、夫の罪をなかったことにしたのだった。
                                   つづく