ふーみんの無限世界

エッセイ、詩、小説の可能性を信じて

錆びた釘 2

「じゃあ、先生、お願いします」
理沙は2歳の息子に手を振る。
一年前、保育園に通い始めたばかりのころは、毎朝むせるほど大泣きしていたのだが、今では、手を振り返すこともなく、仲良しの子のほうへ走っていくことのほうが多い。
以前出産まで働いていた会社は家からかなり遠かったのと、育児休暇をとれるような環境になかったからという理由で辞職した。
今は家から保育園、保育園から職場まで自転車で通える会社で働いている。
忙しいなりにも、落ち着いた毎日だなあと、理沙は思っている。
息子が生まれてすぐのころ、夫は入院した。
ネフローゼ症候群という若い人に多い腎臓の病気だった。
一時的に命も危うい状態に陥り、入院は4か月にも及んだ。
理沙はまだやっと首が座ったばかりの息子をおぶって病院に通った。
先が見えず、もしこのまま夫が死んだら、どうやってこの子を育てながら生きていくんだろうと、毎日毎日不安で仕方なかった。
あの頃に比べたら、忙しいけど、幸せだ、と理沙は思うのだった。
いつも通り、会社に着き、朝礼が終わったあと、デスクで今日の予定の確認をする。
午後の会議のための資料を人数分作って、そのあと封入作業をして、他にも溜まったファイリングもあるな、とうなずきながら確認する。
理沙がコピーを取っていると、同じ部署の先輩女性が小走りでこちらに向かってきた。
小声で何事か言うのだが、聞き取れない。
理沙のほうからさらに近づいた。
「警察から電話。緊急ですって。だんなさん、倒れたって」
「あ、ありがとうございます」
理沙はもつれそうになる足をなんとか運びながら、電話を取った。
夫の病気は今は服薬さえ忘れなければ仕事もできるほど回復しているが、また悪化したのだろうか。
それともまた別の病気だろうか。
電話口の男は、以前聞いたことのある警察署名を名乗った。
「あ、奥さんですね。
 職場に連絡して申し訳ない。
 ご主人が倒れたということで、話しましたが、実は、」
 理沙は血の気がひいていくのを感じた。
 まさか、夫が死?
 「ご主人、電車で女性の体に触ったので、こちらで拘束しています。
 身元保証人が必要ですので、来てもらえますかね」
理沙は膝が抜け落ちそうになったが、辛うじて踏ん張り続けた。
「すぐ、参ります」
電話を切ると、すぐに上司に早退を申し出た。
もちろん夫が倒れて救急車で運ばれたので、と嘘の報告をして。
夫が腎臓を悪くしていたことは上司も知っていたので、まったく疑われない。
それどころか、あなた顔が青いわよ、大丈夫?と心配してくれている。
こっちは大丈夫だから早くいってあげなさい、と。
理沙は鞄を手に取ると、転がるように会社を出た。
数年前の記憶がよみがえる。
思い出したくなくて蓋をしたこともあるが、出産や夫の入院などの大きな出来事で、都合よく記憶は薄まり、電車通勤ではなくなったことも幸いしていた。
あの時は、お腹の中に息子がいて、突き詰めて考えると良くない影響があるかもと恐れて、間違いだったと思い込むこともできた。
だけど、今は?
一度なら、ただの一度の過ちなら、誤解だったかも、もしくは魔がさしただけだったのかも、と思い込むこともできた。
だけど、これは。
今はつわりでもないのに、吐き気がする。
胸に釘が刺さったような痛みが蘇る。
先ほどの警官のついてくれた嘘にすがりつきたくなる。
夫は具合が悪くて保護されているんだ。
それを私は迎えに行くんだ。
そう自分に言い聞かせる。
夫は、女が嫌いだ、と言っていた。
女は、醜い生き物だと。
理沙は夫がなぜそんなふうに思うようになったのかを、自分なりに理解していた。
彼は実母に捨てられ、継母にいじめられて育った。
幼いころから女を信じられなかったと言っていた。
たとえそうだとしても、理沙は自分が彼を変えられると信じていた。
理沙が愛し、結婚し、家族になって、一緒に暮らしていけばいつかは、変えられると。
理沙が優しく包み込むように彼に接してさえいれば、変えられると。
理沙も女なのだから。
以前来た覚えのある警察署に着いた。
流れは一度経験しているので、悲しいほどよくわかる。
警官はまたあの時のように言うのだろうか。
「あまり怒らないでやってね、奥さん」
やはり予想通りだった。
ただ少し付け加えられた。
「ストレスもあるんだと思いますよ」
まるで私が優しくないから、夫がこんなことをするんだと言われている気がする。
留置されていた夫も一言謝っただけで、会社に出勤して行った。
同じだ。
なにも変わらない。
夫は口では謝っていたけど、悪いと思っていないのだろう。
私に対しても、相手の女性に対しても。
彼にとっては、今でも、女は醜い生き物なのだ。
だからこんなことをしてもいいと思っているんだろうか。
でも私は?
あなたに文句ひとつ言ったことない。
腎臓が悪いあなたのために、薄味の治療食を作り、体の負担の無いように、すべての家事、育児を一人でこなしてきた。
息子が夜泣きしても、あなたを起こさないように、おぶって外に出ていた私。
毎日仕事でくたくたでも、あなたを支えてきた私の存在は、あなたにとってなんですか。
それでも女は、私は、醜い生き物ですか?
なんでなの、どうして、と理沙は叫びたかった。
日々は過ぎていく。
理沙は夫を憎んだ。
別れたい、と毎日思っているが、まだできていない。
病気の夫と小さな子供。そして毎日山のようにしなければいけないこと。
ただ毎日が過ぎていく。
心のどこかで、夫が後悔してくれることを願いながら。
理沙という女に対してしてきた仕打ちに対しても。
そして今でもそんな日は来ていない。
そして時々言うのだ。
女は醜い生き物だから、と。
                                了